第1181回

戦时下の卒业论文
私の所属する人文社会系研究科?文学部国文学研究室は、明治10年(1877)の东京大学创立时にその歴史をさかのぼることができる。この时、设置された法?理?医?文の四学部のうち、文学部は「史学、哲学及政治学科」と「和汉文学科」の2学科から编成されていたが、その「和汉文学科」が现在の国文学研究室の起源である。
歴史を有すということはその时间を蓄えた文物を持つということでもある。研究室には、明治39年(1906)から昭和57年(1982)までの卒业论文が保管されており、卒业生本人?ご遗族等へ返却したものや记念馆等に寄赠したものを除き、その数は285点に及ぶ。数年前、资料保存の専门家の助言を受け、一点ずつ状态を确认しながら、整理を行った。明治から大正?昭和初期のものは、芳贺矢一?藤村作?上田万年など国语?国文学研究の泰斗である教员のコメントが付されていたり、当时の现代文学(今の近代文学)をテーマとする卒论も数多くあったりと、歴史に触れる感动や惊きを味わいながらの作业であった。しかし、どのあたりからか、趣きが変わってきた。原稿用纸や製本がぼろぼろで、料纸が剥落しそうなものが现れ始めたのである。
记されている卒业年月は、昭和16年(1941)12月、同17?18?19年の9月。太平洋戦争下における昭和16年10月以降の修业年限短缩と繰り上げ卒业、学徒出阵の世代の卒论だ。执笔に用いられた原稿用纸の纸质が低いのも、製本等が満足に行えないのも、やむを得ない时代であった。慎重にページを繰っていくと、この顷の卒论には「あとがき」や「附记」があることに気付く。卒论が未完であること、惭愧の念に堪えないこと、学问?研究を打ち切らざるを得なかった先辈たちの思いが、言叶や行间に渗む。そのうちの一つ、昭和17年8月10日に搁笔、受领された卒论の「附记」を、部分的ではあるが绍介したい。
传记、着作、作品全般に亘つて研究するのが本来の目的であつたのですが、时间不足の為に、その着作全般にも検讨を及ぼすことが出来ず、甚だ残念に思つてゐる次第であります。后日改めて、この小论の企図した、完璧なる「世阿弥元清论」をものしたいと存じます。
贤しらな言叶は必要あるまい。暴力的な力が社会を覆う时、个人から何が夺われるのか。それでも、人が何を思い、何をなそうとするのか。これらの卒论は一つの象徴だろう。彼らが手を伸ばしてつかみたいと愿ったもの、学问?研究とそれを実现する环境を守り、次の世代へ伝えること。卒论を薄様でくるみながら、大学人として姿势を正さねばと感じたことを思い出す。时间を宿した文物は、静かに确かに、大切なことを教えてくれている。
木下华子
(人文社会系研究科)